
妻に助けられながら、ようやく完成した自作の証明写真。
更新手続きくらいはスマートに済ませたい。
事前にネット予約も済ませた。
今回は妻が買い物を兼ねて付き添ってくれる。
……来年に免許更新を控えてる妻にとってもいい体験になるはずだ。
とにかく、準備万端。
……のつもりだった。
警察署に来ただけなのに、早くも落ち着かない
予約は午前9時。
妻と車で警察署へ向かい、8時45分ごろに到着。
先客は3人ほど。
イイ感じだ。
椅子に腰かけてしばらくして気づいた。
職員さんが受付カードを配っている。
……そんなの聞いてないし告知もなかった。
慌てて受け取りに行ったが、残念なことに後から来た2人に先を越されていた。
いきなり出遅れた。
そもそも警察署という場所は、どうにも落ち着かない。
別に悪いことをしたわけでもないのに、なぜか緊張する。
となりの妻も少し緊張している様子。
ここは私がしっかりしなければ。
平静を装って受付を待つ。
午前9時。
手続きが始まった。
すると、目の前で妙な光景が繰り広げられる。
更新ハガキを忘れたおじいちゃん。
予約時間を間違えたおじいちゃん。
証明写真として普通のL判写真を持参したおじいちゃん。
受付の女性職員さんは、そのたびに丁寧に説明している。
……なんだ、この世界は。
まるでリアルコントだ。
いや、職員さんは笑い事ではない。
本当にお疲れさまです。
そんな光景を眺めること約15分。
ようやく私の番号が呼ばれた。
視力検査で、思わず白状してしまった

免許証、更新ハガキ、苦労して自作した証明写真。
書類の確認は無事に終了。
手数料3,350円も支払った。
あとは視力検査。
……これが問題だった。
これまで眼鏡なしで運転できる免許だったが、最近は視力が落ちている。
前回の更新では、見えない視標の向きを勘で答えたら、偶然当たって合格した。
今回も眼鏡は持参している。
なのに、なぜか裸眼で挑戦してしまった。
最初の大きな視標は分かる。
その次からは、向きがほとんど分からない。
……困った。
とりあえず勘で答えてみた。
「はい、結構ですよ」
えっ?
また当たったの?
……合格してしまった。
でも、これはいけない。
見えていないのに、見えたことになっている。
私は思わず職員さんに告白した。
「すみません。ウソをつきました」
「今の、あてずっぽうです。本当は見えていません」
「もう一度検査してもらえませんか?」
怒られても仕方がない。
ところが、女性職員さんは私の目を見て、にこっと笑ってくれた。
そして、正直に申告したことを感謝してくれた。
視力検査は交通事故を防ぐためにも大切なもの。
そんなことを優しく伝えてくれたのだ。
……なんて人だ。
思わず泣きそうになった。
再検査の結果は、当然ながら裸眼では不合格。
持参した眼鏡をかけて、無事に合格した。
生まれて初めて、免許証に「眼鏡等」の条件が付くことになった。
でも、不思議と気分は晴れやかだった。
その後、隣では別のおじいちゃんが視力検査で引っかかっていた。
「今日はちょっと調子が悪いだけなんだけど」
なんとか通してもらおうとしている。
対応するのは、先ほどの女性職員さん。
相変わらず優しい表情で、度数の合った眼鏡を用意してから再検査を受けるよう説明していた。
命を守るための大切な検査なのだと。
……本当にそうだ。
私も今さらながら反省した。
さて、あとは30分の優良運転者講習だけ。
今度こそ、何事もなく終わるはずだ。
30分間、何を言っているのか分からない
講習会場は、警察署から徒歩3分ほどの雑居ビル。
妻と一緒に向かい、開始時間まで1階のドラッグストアをぶらぶら。
特に買うものはなかった。
時間になり、私は5階の講習会場へ。
妻は近くのスーパーで待っていてくれることになった。
会場の受付には、高齢の男性職員さんが2人。
対応してくれた人は、少し言葉が聞き取りにくかった。
何度か聞き返しながら、どうにか受付を済ませた。
部屋は8畳から10畳くらい。
パイプ椅子が10脚ほど並んでいる小さな会場だ。
受講者は私を含めて8人。
やがて講師が入ってきた。
……あっ。
さっき受付にいたおじいちゃんだ。
ただし、言葉が聞き取りにくかった方ではない。
よかった。あの人じゃなくて!
ところが。
講習が始まって、私は衝撃を受けた。
ものすごい早口。
しかも滑舌が悪く、何を言っているのかさっぱり分からない。
まるで念仏系ラップだ。
……えっ?
これ、30分続くの?
講師は一切ペースを落とさない。
怒濤のマシンガントーク。
もちろん何度もここで発射されたであろう交通ジョークも笑えない。
私はそっと周囲を見渡した。
みんな真面目な顔で座っている。
誰も何も言わない。
……私だけ聞き取れていないのか?
そんなはずはない。
だが、誰も表情を崩さない。
たぶん無の境地だろう。
私も必死で平静を装う。
すると、あることに気づいた。
「……32ページ!」
あっ、聞こえた!
教則本のページ数だけは、なぜかはっきり分かる。
慌てて32ページを開く。
なるほど。
ここを説明しているらしい。
あとは自分で読んで理解するしかない。
しばらくして、
「……47ページ!」
また聞こえた!
……ページ数だけ聞き取れる講習。また笑いがこみ上げてくる。
もはや「笑ってはいけない」の出演者状態。
しかも講師は、相変わらず全力疾走。
お尻は叩かれないけどここで吹き出したら大変だ。
うつむいて教則本を見つめる。
……早く終わってくれ。
そして30分。
ようやく講習が終了した。
長かった。
最後に講師から説明が始まる。
もちろん、相変わらず聞き取りにくい。
ただ、どうやら講習参加用紙にハンコを押してもらってから退出するらしい。
そこだけは何とか理解できた。
ところが、一人の女性がハンコを貰わずに出ていこうとした。
その瞬間。
「ちょっと! 出ちゃダメでしょ!」

……ん?
「今言ったこと、聞いてなかったの?」
「用紙にハンコ押すって言ったでしょ!」
「ハンコがないと免許受け取れないよ!」
「どうしてそうなるかなあ!」
……あれっ!?
全部聞こえる!
一言一句、はっきり聞こえる!
おじいちゃん、ちゃんと喋れる?
さっきまでの30分は何だったんだ?
再び笑いがこみ上げてきた。
エレベーターで、突然みんなが笑い出した
講習が終わり、8人全員が会場を出た。
階段は使えないようで、全員そろってエレベーターを待つ。
やがて扉が開いた。
8人が乗り込む。
……無言。
誰も喋らない。
さっきまでの30分間が、まるで何事もなかったかのようだ。
……いやいや。
本当にみんな、何とも思っていないのか?
私はとうとう我慢できなくなった。
そして、ぽつりとつぶやいた。
「最初から最後まで、まったく何言ってるか分かりませんでしたよね」
その瞬間。
どっ!
8人が、示し合わせたように一斉に笑い出した。

……やっぱり!
みんな同じことを思っていたんだ!
私は、さっき講師に注意されていた女性に向かって言った。
「はっきりした言葉で怒られてましたね!」
再び大爆笑。
すると、私と同年代くらいの男性が、すかさずかぶせてきた。
「怒りたいのはこっちの方でしょ!」
またまた大爆笑。
みんな大きくうなずいている。
さっきまで一言も喋らなかった8人。
名前も知らない。
どこの誰かも知らない。
でも、あの30分間だけは全員が同じ体験をしていた。
そして今、ようやく笑えた。
チーン。
エレベーターが1階に到着した。
扉が開く。
「お疲れさまでした!」
「お疲れさまでした!」
みんな笑顔で挨拶を交わし、それぞれの日常へ戻っていった。
……なんだろう、この不思議な連帯感。
私は、なんだか妙にうれしかった。
その後、スーパーで妻と合流。
さっそく講習会での出来事を報告した。
もちろん、妻にも大いに笑ってもらった。
約3週間後。
私は再び警察署を訪れ、新しい運転免許証を無事に受け取った。
今度は何も起こらなかった。
……よかった。